プロフィール
学年:11期生
出身:秋田県
留学先:国立台湾大学
卒業後は2018年4月に輸送機器メーカーに新卒入社し、鉄道車両の営業担当に。2022年10月から米国の現地法人に出向中。
執筆のきっかけ
私は今、アメリカ・ニューヨーク市から車で40分ほどの街に暮らしています。2022年10月から仕事で駐在員となりこちらに来ました。2023年4月で入社6年目なのですが、このタイミングでの海外駐在と言うと、AIU生であればわりとよくあるキャリアパスかもしれません。
留学先の台湾で、日本製の高速鉄道や地下鉄の車両が活躍する姿を見て、日本のプレゼンス向上のために海外と関わって働きたい!と思い入社。
が、配属されたのは国内営業部。せっかくAIUを出たのに、海外案件に関わる機会や外国語を使うことがない環境を恨むこともしばしば。時々お酒を飲みに行くと周りのAIUの友達や、海外と関わる部門で働く会社の同期は、バリバリにグローバル人材の道を突き進んでいて、自分はこのままでいいのだろうかと自問自答しました。そしてコロナ禍により転職の手段としてのリモート面接が台頭し、何度か面接を受けたこともありました。これも、まさかのドメスティックな人事采配によって味わう『AIU生あるある』でしょうか。
当初の希望とは違った配属先ではあったものの、常に私の個性と意見を尊重してくれた上司、まるで自社の人間かのように時に厳しく、時に優しく鍛えてくれたお客さんと仕事をしていくうちに、やりがいと自信を感じるようになりました。そんな時、NY駐在の話が舞い込んできました。
前置きが長くなりました。この度の執筆のきっかけは、今、私がここに至るまでの自問自答や覚えた不安を、『AIU生あるある』で片付けてしまっていいのだろうか、少し前の私と同じような焦燥感を抱えるAIU生に、私なりに悩んだ経験から何かを伝えることができるのではないか、と思ったからです。置かれた場所でとりあえず頑張ってみたら、思わぬ形でチャンスが訪れた話をシェアさせてください。
就活、入社後
ある程度のTOEICの点数と中国語の検定を引っ提げて臨んだ就活。私が受けたメーカーやインフラ関係の会社は総じて、「グローバル人材熱烈採用中!」といった感じだったので、留学中の苦労話や、留学生と一緒に頑張ったサークル活動の経験談はだいたい、人事の方にハマっていた感触がありました。縁あって今の会社から内定を貰い、今度は配属面談が始まりました。行きたい部門や興味のある仕事をしっかりアピールし、意味があったのかは分かりませんが、入社前の提出物も出来る限り最速で出すなどした記憶があります。
入社式会場の自席には配属先の事業部門が書かれた封筒が置いてあり、開けてみると希望していた鉄道車両の事業部門への辞令が入っていました。そして2ヶ月の工場研修の後に運命の配属発表。事務系は営業、調達、経理、人事のうちどこかになります。これも精一杯熱意を伝えたので、配属は海外の営業担当だろうと思っていました。が、配属先は国内営業部。正直全く腑に落ちないまま、何を頑張ったらいいかその場では見出せないまま、配属先での仕事が始まりました。
国内営業としての4年半は、国内に身を置きながらもある意味で「異文化」との出会いの連続でした。毎週のようにヘルメット、安全靴、蛍光チョッキの3点セットを携え、工場と全国のお客さんを駆け回りました。北海道の朴訥とした雰囲気のお客さん、関西の気のいいおっちゃん然とした工場の皆さん、35度の芋焼酎を浴びるように飲む九州のお客さん。英語も中国語も使いませんでしたが、自分とは属性が全く異なる人々と日々泥臭く仕事をしていくうちに、日本国内であってもまだまだ自分の知らない異文化のようなものがあるんだなと実感しました。製品の不具合や部品の出荷間違いでお客さんにたっぷり絞られた後、とぼとぼと入った居酒屋で頂くご当地の美味しいものは格別の味わいでしたし、最終の東京行きの新幹線の中で開ける缶ビールは、五臓六腑どころか頭のてっぺんから足のつま先まで染み渡る美味さでした。
そして上司には本当に恵まれました。責任ある仕事をドーンと任せてくれ、困った時にはお客さんとの難しい交渉に同席してくれ、時には一緒に頭を下げ、そしてその帰り道には私の愚痴をビールでもって洗い流してくれました。そして、私の心の中で燻っていた「海外と関わる仕事がしたい」という思いを理解し、人事考課のシートでは海外案件の担当への異動に推してくれていたのだそうです。そして入社4年目の秋、部長との人事面談で「アメリカ駐在はアリ?」と問われたので、「アリです」と答えました。
今振り返ると、配属前の私はAIU生としての自分を過大評価していて、広い世界を知ったような気になっていたのかもしれません。英語で物事をこなさなければならないというハードルを乗り越え、留学での現地生活でそれなりに苦労をし、「グローバル人材」としての箔がついたと思い込んでいたのだと思います。しかし、会社という組織の中、社会という大きな枠組みで見たら、新卒の自分なぞまだまだ世間知らずの鼻たれ小僧に過ぎませんでした。与えられた仕事をきっちりこなし、そこに評価が付随してきて、ようやく希望を伝えることができるということを理解していきました。AIUで少しばかり尖った部分にちょうどいい具合に丸みがついて、会社という組織の中でどう自己実現をしていくかという視点で行動できるようになったのだと思います。
駐在生活のはじまり
そんなこんなで社会人5年目の10月、どんよりとした曇り空のニューヨーク・ジョン・F・ケネディ国際空港に降り立ちました。コロナ禍で久しぶりの海外ということも相まり、手荷物に入れていた化粧水が100mlを超えていて保安検査で没収されたり、準備していたSIMカードがアクティベートされず空港で待ち合わせしていた運転手に連絡がつかなかったりと、学生時代の貧乏旅行で培ったはずの勘が失われたのか、少しどんくさいスタートとなりました。
着任3日目からはマイカーを付与され、日本でもしたことがない車通勤が始まりました。慣れない右側走行、おびただしい量の路上駐車、高速道路の無数の車線、すぐにクラクションで煽ってくるNYのドライバー…会社の行き帰りだけで心身ともに削られました。帰宅し車のエンジンを切るたびに、「今日もちゃんと命ある…」とため息が出ました。
この記事が掲載される頃には着任から10ヶ月となりますが、現地の取引先とやりとりをする機会が増えてきました。英語という言語自体は理解できるのですが、卒業後5年はまともに使っていなかったので、特にListeningとSpeakingの反射神経がかなり鈍っていると感じます。また、ビジネスで英語を使うのは初めてなので、取引先に提出するレターにおける微妙な表現の調節に苦戦しています。ローカルの同僚からは「原田さんは文法は間違っていないし、会社の総意はよくまとまっているんだけど、お客さんに説教しているようなワードチョイスなんだよね。」とコメントを貰うので、「(くっそー)」と思いながら、真っ赤になったドラフトを推敲する毎日です。
生活も仕事も、日本にいた時よりも間違いなくスリリングでハードで、毎日疲れ切って7時間しか寝れていない(?)のですが、怖くて仕方がなかった通勤中にストリーミングから流れてくる曲を口ずさむ余裕が出てきたり、社内外のコミュニケーションにおける機微のコントロールがなんとなく分かってきたり、少しずつでも順応してきているような感じはします。あれこれ苦労しながらも、その地に根ざしてどうにか乗り越えた7年前の留学を思い出します。異国の地でなんとかサバイブしているこの感覚が好きなのは、きっとAIU生としての性なのでしょう。
終わりに
最後に1つだけ、少し前の世代のAIU生ならば誰もがお世話になったあの方のお言葉を紹介して終わりにしたいと思います。
「AIUまでの人になるな、AIUからの人であれ」
これは、A棟1階学生課の「こばかず」こと小林和世さんが、保護者向けの懇談会でおっしゃっていたお言葉だそうです。(保護者向けの会だったので、私の母からの伝聞です)
AIUでの生活は、学びも遊びも(飲み会も)全てに貪欲な素晴らしい学友、秋田の山奥とは思えないほど質の高い教育、そしてたくさんの乗り越えるべきハードルと達成感に恵まれた、一生の誇りとなる4年間だったと思います。こばかず(敢えて愛称で呼ばせてください)の言葉には、AIU生はAIUへ入学したこと、卒業したことで満足し、驕ってしまうような人たちではない、AIUを巣立ってからも学びや挑戦をやめてはならない、というメッセージが込められているのだと私は解釈しています。
海外駐在という1つの目標を実現するチャンスを貰った今、一会社員として「ここからの人」であれるよう、またギアを入れ替えて頑張っていこうと思います。
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